6月19~21日 恐山へ団体参拝旅行 どうぞ ご一緒に 人権擁護推進主事 山口完爾

今年は本山じゃないの?』『自分は年老いたので、今年の永平寺を最後にしようと思っていました』『えらく遠いところですね・・・それに、地震は大丈夫ですか?『親を送りましたから、本山へ供養のお参りをしたかったです』『同じ本山へ2年続けてお参りしては、なぜいけないのですか?』・・・こうした声が新年度の【恐山と禅林街、青森周遊の旅】、宗務所団体参拝研修会を檀家の皆さんへご案内すると寄せられました。

 一方で『六ケ所村も近いですね・・都合がつけば参加・・できるかな』と仰る方もあります。魅力的と思われます「北の端てに臨む旅」へ寄せられるそれぞれの声に、私は日頃「せめて年に一度は本山の空気に浸ろうと、本山参拝を心掛けていますから、できるならご一緒致しましょう」と呼び掛けていることも踏まえ、皆さんが恐山へお気持ちを向けて下さるよう願いながら、一緒に考えているところです。

 

 どんなふうに考えるのか・・6年後の瑩山禅師さまの七百回大遠忌が丁度總持寺となるように間を入れるのですよ・・何事にも“間”が大切ですから・・・」「未だまだお元気、最後などと仰らず、一日ずつ大事に重ねればやがて来年です・・待つことも大切です・・お待ちになって是非ご一緒しましょう・・」「費用は嵩みますので心苦しいですが、飛行機ですから一飛び、乗り継いでもう一飛び、参拝旅行は心の旅・・心の世界は、地図ほど遠くはありませんから・・」「地震は・・そうですね・・地震が起きないよう祈りながらの旅ですね・・仏道に沿えば人生も祈りながらの旅ですから・・」

 そして、「私も、恐山へのお参りは初めてなので旨くは申せませんが、恐山は死者供養の場所と言われます。お亡くなりの親御さんのことを思われてのお参りは、心が膨らみ、その膨らみで親御さんを思い出され、親御さんの心と触れ合う・・そのような気がします・・供養とはそういう心のありようが大切ではないでしょうか・・・だって、供養の法事とはご本人を思い出すこと*①ですものね・・・供養でお供えするのは花やご馳走といった形も欠かせぬと思いますが、大切なのは心ですよね。その意味で、参拝して研修でお聴きする、恐山菩提寺院代南直哉(みなみじきさい)老師のご法話が有意義だと思います。南老師は永平寺で20年の修行をなさった当に名僧で、才僧とも評される“恐山の禅僧”ですから、皆さまと永平寺のご縁の拡がりを感じて頂けるものと思います・・ぜひご一緒致しましょう」

 更に、2年続きの同一本山参拝は「2年続くのが悪いという訳ではないのですが、本山を中心に、ときには私たちの宗門の、むしろ、仏教の、大らかさ*➁をも感じて頂きたいのです・・そう、大らかさと申せば、菩提寺には江戸時代前期に全国を行脚した僧侶円空が彫刻した木像も安置されているとのこと、私は円空仏の大らかさが大好きで、貴方にも向き合って頂きたいのです・・」

     *➀ 南直哉著「恐山 死者の居る場所」(P143)〔一番の供養は「死者を想い出す」

        ことなのです〕

     *➁ 同書(P88)に従えば「日本仏教の幅の広さ」というべきかも知れません。

        そもそも法歴浅薄な迷僧の私が「宗門の大らかさ」などと申しますことは

        軽率でありましょうが、お許し下さい。

 他方『下北半島の付け根、恐山の手前に仰るとおり六ケ所村があります。日本のエネルギー政策で進められようとする核燃料サイクルの枠組みにとって重要な六ケ所村、全国の原発から出た使用済み核燃料を再び使おうとする再処理工場があります。しかし、さまざまな問題を抱え、その稼働可否について、私たちの問題意識が十分とはいえません。この問題を、恐山への旅を機会に原発立地県民として意識することは “原子力に頼らない社会の実現”も柱に据えられた、管長のおことば(告諭)に適うと考えられますから・・この際、私も学びたいです』

 このように、檀徒さんにも教えられて遣り取りする昨今ですが、例年ご参加の方を含め、問合せや申込みの動きが静かで、私の応えや説明の拙さ・非力を拭えません。

 

 ところで、私に恐山を、津軽海峡や下北半島、仏ヶ浦などとともに意識させましたのは、54年前(前回東京オリンピックの昭和39年)の映画『飢餓海峡』です。原作は水上勉の同名小説で、巨匠内田吐夢が監督、キャストには三國連太郎、左幸子、伴淳三郎、若き高倉健らが名を連ね、音楽を担った冨田勲ともども、いずれも故人となった夫々の個性的な演出や演技に魅せられた、邦画傑作のひとつに挙げられる大作です。

 ドラマは、殺人事件を軸に、物心両面で飢餓と隣り合わせていた終戦直後、海峡のように渦巻く人間の善意と悪意、その二面性の葛藤がテーマでした。舞台は、昭和29年に発生した青函連絡船洞爺丸の台風による転覆大事故*➂と北海道岩内町の大火を原点に据えて、飢餓や貧困が現実だった混乱期の、北海道、津軽海峡、下北、東京、舞鶴などに、広く、しかも10年の時の流れを浮沈させて設定されていました。いまや(新たな所得格差などが無視できぬとはいえ)実物の飢餓とは無縁の社会ですが、心の飢餓は時代とともに複雑、深刻に蔓延し、私たちを喘がせます。ですから原作が訴えたかったであろうこのテーマは当時も現代も私たちの心に響きます。

     *➂ 洞爺丸事故の翌年、私が小学校6年生の昭和30年、松江市立川津小学校

        修学旅行生多数が犠牲となられた宇高連絡船紫雲丸事故が発生、両事故の

        暗い記憶は消えません。私たちは事故の前日、紫雲丸に乗船しました。映

        画『飢餓海峡』では事故に遭う連絡船の船名が「層雲丸」とされ、原作者

        も2件の惨事を想い重ねたであろうと推察できます。

 映画『飢餓海峡』には、東北地方の無形民俗文化財イタコ(巫女)のことも知らされました。イタコについては、南老師の著書で仏教の立場・視点から記されているとおり、私たちが参拝する菩提寺(又はその本坊円通寺)との宗教組織的な関わりはありませんが、『飢餓海峡』にはイタコの口寄せ(死者などの霊を自分に呼び寄せ、その意思などを言葉で語る術)のシーンもあって、主人公たちの宿命的な縁を暗示していました。映画を観た後で読んだ原作(新潮文庫上下巻)にイタコが直接登場するこはありませんが、恐山の軌道車で出くわした主人公、物心両面の飢餓にうごめく男と、物の飢餓に翻弄されつつも心の飢餓に呑み込まれぬ女、二人は、恐山とイタコのことで言葉を交わします。

        女はぽそりといった。『母ちゃんのね、三周忌で帰ったのよ』

        「お母さんが死んだのか」

        『母ちゃんの声をききにもどった。爺ちゃんがね、巫子(イタコ)さんを

        たのんで母ちゃんの声を聞かせてもらったんよ』

        「死んだ仏のか」

        『そうよ、巫子さんにたのむと母ちゃんの声が出てくるんよ』

        男はギロリと眼を光らせた。瞬時何を考えたのか、ぎょっとしたように

        口をあけたまま眼を伏せている。

        『あんた知んないの』『恐山にはね、巫子さんがいっぱいくるわ』

        「巫子ってそら何だ」

        『恐山にあつまった死んだ人の霊をよびもどす女のひとよ』

        「・・・・・」

        『円通寺の境内には、賽の河原や血の池もあるわ。そこへね、みんな石を

        つんだり、お線香あげたりして、おまつりしてゆく』

        「・・・・・」「あんたは、それで、お母さんの声をきいたかね」

        『お爺ちゃんが、お講の信者だから毎年巫子さんを呼ぶのよ。仕方なしに

        あたしたちは聞いてあげなきゃならないのよ。迷信よ』

        と女はいって笑った。男は女が笑う顔をみて、ほっとしたように自分も

        うす笑いを浮かべた。

 

 

 『飢餓海峡』のストーリーに深入りはしませんが、左と三國がそれぞれ演ずる女と男を中心に、物心両面の飢餓に絡む縁と宿命・・その渦の中で、一方が被害者、他方が加害者に陥る殺人へと展開します。10年に亘って犯人を追う刑事を伴淳三郎が演じ、彼の新境地と評される好演でした。心の飢餓に喘ぎながらも、老刑事と向き合い、罪の意識に目覚めた加害者が、己を悔い、被害者を追って津軽海峡の波間へ身を投ずるラストシーン・・・伴が恐山を望む海峡に合掌し、憐れな被害者へ捧げる般若心経を唱え、やがて、三國が身を投じた海峡の、白くあとをひく航跡が静まりゆく、そのバックを流れる、冨田勲のシンセサイザーの調べが心に響き*➃、我が身を暫らく客席に留めたことを覚えています。 

     *➃ ラストシーンは映画ならではの演出でした。伴は別の場面でも般若心経を

        唱えますが、原作にはいずれの心経の記述もありません。また、シンセサ

        イザーが冨田の編曲した地蔵和讃であることは後日教わりましたが、その

        歌詞は仏教の教理と関わりなく詠い継がれてきたものですが、音響として

        効果的でした。

 

 初めてでも、そのように想いが巡る恐山ですが、この度の周遊先は、かれこれ50年前、若き日にキスリング(サック)を背負い、キャラバンシューズを履いて散策した懐かしの地でもあることが、私には一層の興味を誘われる所以です。しかも、その想い巡る地は、一部がこの度の旅程と重なっているのです。恐山のある下北半島(脇野沢港)からフェリーで渡る津軽半島では、往時に訪れた青函トンネル工事現場や完工記念イベントの舞台だった本州最北端・三厩村 (みんまやむら;平成の大合併で現在は外ヶ浜町)竜飛岬にまでは、今回は残念ながら迂回できないものの、南下して立ち寄る酸ヶ湯温泉、十和田湖や奥入瀬は、いずれも再訪が楽しみです。

 これら津軽の地は、1900年代初頭、簸川中学校(現・大社高校)で教鞭を取り、後に文人(文芸評論家・詩人)、紀行家として伝統を重視し活動した大町桂月が晩年愛した地であることを知ったのも、遠き日の散策途上です。恐山の西方、下北半島が津軽海峡に注ぎ込む海岸線の中央辺り、古くは仏宇陀(ほとけうた)と呼ばれた景勝地を「仏が浦」として世に知らしめたのは桂月だったそうですが、その地を目の当たりに出来る余裕も、やはり今回は無念ながら乏しいようです。

 それでも津軽海峡の対岸には、私の企業勤務時代、1980年代前半の4年間を務め過ごし、いまも心に留まる北海道・・彼の地を望み、感じることができる筈です。ですから、この団体参拝の旅は、祈りと、北の風物と、わけても北の海と・・・いわば津軽海峡夏景色へ、ご一緒できる皆さまと共に心を委ねる旅となって欲しい、そのようにしたい、と思います。

 さあ、ご一緒致しましょう・・6月19~21日 恐山と禅林街、青森周遊の旅へ・・・

人権擁護推進主事 山口完爾

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